アウンサンスーチー
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Aung San Su Kyi
迎賓館赤坂離宮にて
(2019年 撮影)
ミャンマー連邦共和国
初代国家顧問
任期
2016年4月6日 ? 2021年2月1日
大統領ティンチョー
ウィンミン
前任者(新設)
後任者(廃止)
ミャンマー連邦共和国
大統領府大臣・外務大臣
任期
2016年3月30日 ? 2021年2月1日
大統領ティンチョー
ウィンミン
ミャンマー連邦共和国
教育大臣・電力エネルギー大臣
任期
2016年3月30日 ? 2016年4月6日
大統領ティンチョー
ウィンミン
ミャンマー連邦共和国
連邦議会人民代表院議員
任期
2012年5月2日 ? 2016年3月31日
国民民主連盟
党首
現職
就任
2011年11月18日
国民民主連盟
書記長
任期
1988年9月27日 ? 2011年11月18日
個人情報
生誕 (1945-06-19) 1945年6月19日(78歳)
ビルマ国、ラングーン管区ラングーン都
市民権ミャンマー人
政党 国民民主連盟
宗教仏教
署名
アウンサンスーチー
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Aung San Suu Kyi
思想仏教の慈悲、非暴力[3]
活動ガンディーの非暴力民主化運動
所属 国民民主連盟
投獄自宅軟禁3回 合計約14年9か月(現在は解除)
受賞・トロルフ・ラフト人権賞(1990年)
・サハロフ賞(1991年)
・ノーベル平和賞(1991年)
・議会名誉黄金勲章(2008年)
・レジオン・ドヌール勲章コマンドゥール(2012年)
母校デリー大学(政治学学位)
オックスフォード大学(学士、修士)
ロンドン大学SOAS(修士)
影響を受けたものマハトマ・ガンディーの非暴力不服従運動
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ノーベル賞受賞者
受賞年:1991年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:ミャンマーの人権と民主主義の確立のための非暴力闘争に対して
アウンサンスーチー(ビルマ語: ???????????????(画像による標示:)、ラテン文字表記: Aung San Suu Kyi、ALA-LC翻字法: ?O?? Chan?" Cu Krann?、IPA: /a?N s?aN s? t?i/。1945年6月19日 - )は、ミャンマーにおける非暴力民主化運動の元指導者、元映画監督。元国家顧問。現在はミャンマー国軍のクーデターによって発足した現政府に犯罪者として扱われている。国軍統制下の裁判で19件の罪で有罪判決が決定し、刑期は合計禁錮33年として法の下に刑を下された。
2016年3月30日にティンチョーを大統領とする新政権が発足したことにともない、外相、大統領府相を兼任(当初は教育相と電力エネルギー相も兼任していた)[4]、さらに新設の国家顧問にも就任した。同国における国家元首は大統領だが、大統領を超越する存在としてアウンサンスーチーが事実上の最高指導者であった[5]。2021年ミャンマークーデターを受けて、現在は刑務所に収監中。
ビルマの独立運動を主導し、その達成を目前にして暗殺された「ビルマ建国の父」ことアウンサン将軍の娘である。敬虔なテーラワーダ仏教徒とされる[6]。使用言語はビルマ語、英語、フランス語、日本語[7]。2013年、訪仏時はフランス語で講演し、訪日時は英語で記者会見した[8][9]。
日本や、英語メディア、仏語メディア、独語メディアなどの報道では「アウンサン・スーチー」「スー・チー」などと表記されることもあるが、ミャンマー人(現在のビルマ語族の大半)は姓(名字)はなく、ミャンマー国内では通常「アウンサンスーチー」の一語で表記する(後述)。 1945年6月、ミャンマーの首都ヤンゴンで生まれた。当時はビルマの戦いの末期で、敗勢の日本を裏切った父アウンサンらの攻勢もあり、5月にラングーンから日本軍が駆逐され、日本の支援を受けていたビルマ国も崩壊。日本統治時代が終わりイギリスの支配に戻ったばかりのころだった。 日本の降伏後、1947年に父アウンサンが、政敵ウー・ソオの部下に暗殺される[10]。
来歴
生い立ち